アイスキャンデー・ウォーシップ

私にとってのベストアイスと言えば、いつまで経っても春夏秋冬、あずきバーであろう。あの硬さと小豆の味わいがたまらない。小豆の粒が入っているのも、つぶあん党の私としては嬉しいところ。天下の井村屋が、小豆の正解はこしあんでなく、つぶあんである。と宣言してくれているようで心強い。あずきバーの醍醐味といえば、やはりあの硬さであろう。最近はあずきバーの食べ過ぎで、他の氷菓は腰抜けの食べものだと錯覚することすらある。

私がどれだけあずきバーが好きかというと、かぶりつける硬さになるまで待ちきれずに思い切り噛みつき、前歯が欠けてしまったほどである。かけた前歯はあずきバーで埋めてある。という与太話は置いておくとして。これ以外のアイスは考えられないほどに、あずきバーが好きなのだ。

突然だが、私はあずきバーと同じくらいのイギリスが好きである。もっと言えばイギリスが開発したトンデモ兵器が好きである。塹壕を飛び越えるためにロケットでジャンプする戦車とか、鶏で保温する爆弾とか。常人では考えつかないようなアイデアに溢れている。

その中でも、とりわけ好きな兵器が氷の装甲で身を固めた軍艦である。海水を核エンジンのエネルギーで凍らせることによって、装甲が破損しても無限に修復することが可能という、無敵の戦艦である。きっと疑問に思ったことであろう。氷の装甲では戦争するには心許なあのではないか、と。そんな疑問を抱いた貴方はイギリス軍兵器開発部を舐めている。そんな簡単なことに気がつかないイギリス軍ではない。そこで大人しく紅茶でも飲んで黙っているといい。

イギリス軍兵器開発部は、氷の装甲の脆弱性を当然認知していた。そして同時に氷の装甲を堅牢にする方法も確立していたのである。氷に繊維を配合することによって、氷の装甲を強化したのだ。なぜ繊維質のものを混ぜ合わせると氷が強固になるかはわからないが、事実として氷は硬く、強くなるのだ。

にわかには信じ難いだろう。実験するのも面倒くさいだろう。ここで、イギリス軍兵器開発部の技術の粋を簡単に体験する方法を紹介しよう。 

お近くのスーパーやコンビニで、あずきバーを購入するのだ。あずきバーは小豆などの繊維を含むため、イギリス軍の戦艦と比肩する硬度を備えている。イギリス軍兵器開発部の技術力と日本の伝統的甘味のマリアージュ。それこそがあずきバーの正体である。今年で日英の国交が開始されてから165年経つという。2国一層の繁栄を願って、私はこれからもあずきバーを食べ続けていく所存である。

 

今週のお題「ベストアイス2023」

食べて寝ると牛になる

最近、贅肉が増えてきたように感じる。年齢のせいなのか、食生活のせいなのか、生活環境のせいなのか。原因には幾つか心当たりがあるものの、一朝一夕に改善できる事柄であるのならば贅肉などいうものはこの世に概念ごと存在しないはずである。


最近、贅肉が増えた。肉体にも精神にも、生き方にも時間の使い方にも。口を開けて物質や情報を浪費しているという実感は、確かに手応えとしてある。どうしようもない。それはそれとして、タイトルの言葉に戻ろう。「食べて寝ると牛になる」という言葉がある。食後すぐに横になると太るので、食後はストレッチや軽い運動をすると良い。という昔の賢い人の親切心の発露がこの言葉である。
なんとありがたいことか。


しかし、食後の肉体は消化にエネルギーをまわすので、大人しくしている方が体に良い。と言うのが現代の賢い人の考えだそうだ。なんと、昔の賢い人よりも、現代の賢い人の言うことの方が科学とかそういう観点から見ると正しいように感じる。どちらを信じるのはあなた次第、などと言う無責任な投げかけをするかは兎に角。食後は大人しく横になるのが吉であろう。

 

ここに「鶏口牛後」と言う言葉と「果報は寝て待て」という言葉がある。先ほどの「食べて寝ると牛になる」言葉を合わせてみるとどうだろう。食って寝て、じっとしているだけで都合の良いことが起こりそうな気がしてくるではないか。私は先人の教えに従って、食って寝て過ごし、事態が好転するのを待つことにしようと思う。役に立たないような格言や言い回しが現代まで残っているはずがないのだ。やはり昔の賢い人の言うことをしっかり守っていくことが、ひいては平和な営みの継続に紐づいているのだろう。と、結論を出したところで気づいてしまった。困ったことに、食うにも寝るにも糞を垂れるにも、現代社会は金銭を要求してくる。これでは私の慎ましく、賢明な作戦を実行することは叶わない。

 

インターネットに生息している非実在金持ちが言っていた。世の中には「FIRE」という考え方があると。簡単に言うと、労働せずに資産の運用で喰っていく、という生き方である。


労働することなく生きていく理論がすでに確立されている。これは朗報だ。先述した先人の知恵コンボと、この理論を合わせれば完璧だ。私は生涯労働をすることなく、喰って寝て贅肉を蓄えることができるのだ。と、ここまで書いて気がついた。


私には運用できる資産がない。私の自由にできる資産など、2ヶ月程前に購入した電動自転車と、銀行に預けているわずかな預金程度であろう。これでは喰っていくことはおろか、眠ることも糞を垂れることもままならない。思い出や理論や言葉では腹は膨れない。放っておけばお腹が空くだけである。

 

結局のところ、真面目に労働して、生存に必要な小銭を稼ぎ続ける自転車操業をしていくほかないようだ。布団の中でぐるぐると考えを巡らせて見たが、私に出せた結論は何の面白みもないことしかなかった。仕様がないので、明日からも今まで通りの生活を続けていくことにする。せめて日々の営みの中で、腹回りに蓄えてしまった贅肉が減ってくれることを信じて。

劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン ネタバレ無し感想

あの事件後、初となる京都アニメーションの新作である。私が言葉にできるもの以上に様々なものを失って、再起するスタジオを応援する意味合いも含めて、私は劇場へ足を運んだ。

 

スタジオからファンへのメッセージ

この映画は、スタジオから我々ファンへのメッセージである。失い、傷つき、涙を流しても、苦難に立ち向かい、それを乗り越えて行くというスタジオの強いメッセージを、私は受け取った。

これまでのブランクやダメージを感じさせない映像美、巧みな演出、キャラクター達の細やかなお芝居は、相変わらず他の追随を許さないハイクオリティなものだった。

次回作はどのような作品が生まれてくるのか、目が離せない。

 

ドールの終わり

この映画を持って、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女と、ドール達の物語は幕を下す。

これを悲しいと思うかどうかは、我々の受け取り方次第であろう。

今作中に登場する小物達や背景、人物は、アニメ版を踏まえて登場する。フォローがあったらなかったりするが、アニメ版をもう一周してから映画に臨むと、より一層楽しめるかと思う。

 

おわりに

ネタバレを避けるとほぼ語れないな、などとここで言い訳をしておく。

ヴァイオレットエヴァーガーデンという作品の終わりを見届けないのは、アニメーションを嗜むものにとっての損失だ。この状況のおかげで、映画館は空いているし、隣に人も座らない。集中して作品に挑めること機会を活かして、劇場へ足を運んでみるのはどうだろうか。

 

 

 

BNA 感想(全話視聴済み) ネタバレあり

まさに今、先行配信でBNAを見終わった。前半の明るい雰囲気とは打って変わって、後半は暗い展開や、スッキリしない出来事が重なっていく。

前半の楽しくてライトな雰囲気が好きなら、温度差に耐えられないかもしれない。

 

以後ネタバレ。内容を踏みたくない人はブラウザバック。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トリガー」脚本の欠点は健在

さて。プロメアの時も挙げた点であるが、なによりも脚本の急加速と、伏線のない唐突なネタバラシがラストギリギリに起きる。

悪役の手の上でいいように転がされ続ける後半の展開と合わさって、なかなか印象が悪く、消化不良感が残ったまま終わってしまった。

いがみ合っていたのに、急に全面的に信頼しあえるまで修復される、みちるとなずなの関係。アランの言葉を鵜呑みにする登場人物たち。今回はいつもの欠点に加えて、キャラクターたちの行動や気持ちの面がチグハグな感じがした。

一貫しているのは、みちるの主張と士郎の感情くらいで、キャラクターたちが都合良く動きすぎていたように思う。まぁ、みちるの主張も最終回の展開で一気に薄っぺらくなってしまうのだが。

 

 

主張と行動

最終回でステージに立ったみちるの言葉。あれは最初の頃からずっとみちるが示してきた、彼女のスタイルを端的に表したものであったと思う。

獣人か人間か。男か女か。美しいか美しくないか。楽しいか楽しくないか。自分の外面も内面も、自分が自分で決めるべきもので、それを外部から干渉するのは間違っているという主張だ。

この主張は繰り返し彼女が示してきたことだし、口にしていたことでもあった。それゆえに、あの盛り上がりであの展開で、アランと戦わなかったのが残念でならない。

自分で決めると言うことは、決めたことに対して責任を持つと言うことである。主張を認めさせるなら、主張を自分のものとしたいのなら、彼女は自らの手でアランを打ち倒す必要があったのだ。

 

いいところもあった

アクションは当然良かったので特に書かない。わかりきったことをわざわざリマインドするのは無駄だからだ。

色彩や美術に関しては、高い評価を得たプロメアのノウハウが遺憾なく発揮されていたと思う。特にみちるとなずなの色彩設計は素晴らしい。

諸星さん、細谷さんをはじめとした声優陣の演技も良かった。特に諸星さんは、勝気で今っぽい女の子の演技がとても良くて、ずっとみちるだけ喋ってて欲しいくらいだった。

みちるの主張やキャラクター設定に関しては、ブレがなくしっかりしていて主人公の風格を感じた。みちるというキャラクターに関してだけは、最後を除いて文句のつけようがないほど、良かったと思う。

 

「トリガー作品」の行く末

信じてもらえないと思うが、私はtriggerという会社と、ここのスタッフさん達、なによりもここの作品が大好きだ。トリガー作品は、他のどの会社とも明確に違う。古き良き雰囲気やオマージュを残したまま、独特な形で進化していっている。

トリガー作品は、特にアクションや声優の演技に秀でていると思う。さらにはプロメアで、独特な画面も手に入れた。もはや無敵だ。

トリガーは、視聴者が求めるラインの遥か上を突き抜けていくようなものが作れるはずだ。キルラキルのように、熱く、かっこよく、外連味に満ち満ちた新旧マーブル状の怪作を生み出せるパワーがあるはずだ。

それなのに、どこか停滞している感がするのが残念で仕方ない。百点満点で、二百点をもぎ取って欲しい。期待を裏切って、予想を上回って欲しい。

いつかきっと、triggerが天井を突き破る時がくると、私は確信している。今は無理でも、いつかは必ずそうなるはずだと、信じている。

 

長々と書いたが、結局私がtriggerに言いたいのはたった一つだけだ。

場外ホームランをもう一度。

 

アナと雪の女王2 ネタバレ無し感想

説明不要の人気作、アナ雪の続編である。ネタバレ無しの簡単な感想をここに書く。

 

アナ雪2は、近年ありがちな前作の劣化コピーではなく、前作とはテイストを変えた、前作にも迫る名作に仕上がったように感じる。

ストーリーの繋がりやメインキャラの続投は、もちろんある。しかし、ヒロイン達の服のデザイン、ミュージカル感の増加、アクションシーンの派手さは、前作と今作を差別化するのに大きく役立っており、パワーアップしたCGと相まって、素晴らしい完成度だったと思う。

特に氷の透明感、水の質感、キャラのなんでもない仕草をはじめとしたモーションなど、細かい部分が作品の質を底上げしている。

ストーリーに関しては、いかにも「ディズニー映画」といった感じで、奇を衒わずに王道を駆け抜けていく。子供には夢を、大人には懐かしさを与えてくれるだろう。

 

 

アナ雪は、アナ雪2をもって完結しても良いと思えるくらいに、いろいろな面での完成度が高かった。前作と今作を合わせれば、あのシンデレラにも及ぶレベルで素晴らしい作品だ。

この作品によって、現代を代表するディズニープリンセスの座はアナとエルサのものになったと言っても、過言では無いと思う。

カードキャプターさくら 感想

往年の名作、魔法少女アニメの原点、最もオタクを生み出した罪深き魔物。日本アニメーションにおける、一種の到達点であろうこの作品を、なんと呼べば良いのだろう。

全70話を視聴して、私はなにかあたたかな感情を再発見した。

さくらちゃんを通して、ハラハラしたり、ワクワクしたり。日常の小さな喜びに気付いたり、なんでもないことを楽しめたり。

ちょっとした冒険や試練もあるけれど、周りの助けや、さくらちゃん自身の頑張りでなんとか乗り越えていく。

私があらゆる作品に求めていたのは、こんな感じの小さな何かなのだと思い出した。壮絶な設定も、壮大な世界もあまり重要ではない。当たり前の事に一喜一憂できるような、素直な感性がくすぐられるような、そんななにげない日々を、素敵な女の子の姿を通して追体験したかっただけだったのだ。

「天気の子」ネタバレあり感想

最初に言っておくが、ネタバレありの感想だ。回避したい人はブラウザバックを勧める。あと、賛否の否を扱う文章なので、それが嫌な人も、ブラウザバックするべきだ。

高尚な理論も理屈も無い。天気の子を見て感じた、素直気持ちをつらつらと書いていく。

 

 

 

 

 

映画「天気の子」は、ざっくり言うとマジョリティの無責任な願いに縛られた少女を、無責任にそこから解放する少年の物語だ。古今東西にごまんとあるボーイミーツガールの王道的展開だが、王道に至るには足りないものが多すぎた。そして、今までの新海監督作品とは大きく違う点に、私は面食らった。

まず、登場人物の造形。たまたま拾った銃を捨てずに持ち歩くばかりか、それを他人に向け、あまつさえ発砲する主人公。年齢を詐称し、弟と暮らすヒロイン(未遂だったが、体を売ろうとさえしていた)。大人になれと言うばかりで、その実自身も大人になれない男。

雨の日にのみ東屋に訪れる女性や、進路と恋愛の間に揺れるサーファーとは違う、どこか現実的な汚さをもつ人物たち。

馬乗りになって顔を殴りつけたり、他人に向けて銃を撃ったり、どこか暴力的なシーン。ビルの入り口で惨めにゴミを集め、食べ物も口にせず水を飲んで我慢する貧困と孤独のシーン。美しさとはかけ離れた描写。

 

新海監督の持ち味は何か。それは、画面の美しさと効果的な劇伴が、儚い景色や関係性とかみ合って、どこまでも美しい世界を作り上げているところであると、私は思う。

移ろう景色と共に変わりゆく関係性だったり、時に阻まれて遠ざかる色んなものの距離だったり、雨の日に繰り返される逢瀬だったり、そう言った細やかに気配りされて作られた美しさが、新海監督作品に求められるものであると思う。

しかし、「天気の子」では上記の2点がこの美しさを邪魔する。どこか浮世離れした現実との絶妙な距離感は、現実の薄汚さをもつキャラクターや、暴力シーンによって破壊される。美しい景色や台詞を味わおうにも、またいつ現実が襲ってくるのかという気持ちが邪魔をする。

主人公の、マジョリティを捨てるという選択も、利己的な一時的な感情によるものにしか見えなかった。田舎から出てきて、当事者の方はなにも考えずに勢いだけで行動する姿は、見苦しい。

それを指摘するキャラクターも一切登場せずに、ただただ主人公の間違いが積み重なっていく。彼があの映画で成した善は何も無い。マジョリティを犠牲にしてヒロインを救うならば、それを正当化できるだけの理屈や積み重ねが欲しかった。

「天気の子」という作品は、「君の名は」がヒットした後、雨の後のタケノコの如くポコポコと生えてきたアニメ映画群の1つでしかない。制作したチームが「君の名は」と同じであっただけで、あの作品ほどの盛り上がりも、キャラクターの魅力も、美しさも足りない。二番煎じだ。

 

 

 

「勝負の3話」という言葉がある。アニメ作品は最低3話まで見ないとどんなもんか分からないという意味だ(と私はざっくり把握している)。

「君の名は」から始まる新生新海誠作品の3作目を見るまでは、まだ判断は下せない。しかし、「天気の子」のようにエンターテイメント性に比重を置き、本当の武器を捨ててしまうようならば、アニメーション界は大きな財産を失ってしまうだろう。