チラシの裏 性行為と機関銃

飲みの席にいると、「ゆずりはさんって誰が好きな人いるの? 付き合ってる人いるの?」と問われることが多い。「性とか恋愛を理解できなそう」とも言われる。

「そう思うなら聞くな」とは言えないので、適当な芸能人の名前を挙げて話題をすり替えることにしているが。果たして自分が本当に恋愛や性行為に興味がないのか。少し見つめ直してみた結果、なんとなく自分の恋愛と性行為に対する捉え方がわかってきた。

 

まず、恋愛。人間は、人間になる前から群れる種族である。他者と関わりを持ち、助けあわねば生きていけない。さまざまな形の関わりの中で、もっとも親密なものが家族の繋がりであり、2番目に親密な関わりが恋愛である。

そんな親密な関係を他人と作り、維持するエネルギーは相当なものだろう。共にする苦楽の損得勘定をすると、どうしてもマイナスの比重が重いように感じる。

なにより私は(自分を含めた)人間という存在が嫌いである。距離を置こうにも、私はインターネットにがんじがらめな世代である。

プライベートに一切侵食してこなく、かつ私が求めた時にだけ求めた分だけ存在を分けてくれる存在なら欲しいが、そんなものはただの都合のいい奴隷である。

 

次に、性行為。性行為に対する興味は、年相応人並み程度にはあると思う。自慰行為をしたことがないとは言わないし、そういった衝動に駆られることもなくはない。しかし、その行為は自分一人で完結している。私は決して潔癖ではないが、他者の肌に触れることは苦痛である。

性行為がどんなものでどんな感じなのか。体験してみたい、とは思うが実際やってみるほど強い興味ではない。機関銃で並び立つ人をなぎ払ってみたいと思ったことは誰しもあるだろう。しかし、実際に機関銃が手元にあって、スクランブル交差点に降り立ったとしても、機関銃で目の前の人混みをなぎ払ったりはしないだろう。

閑話休題。コオロギは、交尾をした後に卵管を地面に突き刺し、そのまま卵を産み付けるそうだ。メスのコオロギの腹に収まっている卵の形が好きで、図や写真をよく眺めたものだ。閑話終了

人間と人間の性行為は、所詮動物の交尾と同じ。魚が卵を産む様子を見て欲情する人は少ないだろう。コオロギの卵管が伸びる様を見て、生命の神秘を感じる人は多くないだろう。要するに、私の性行為に対する興味や関心はその程度である。

自分から溢れる醜い欲望を他人に向けることは、すなわちカッコウの子供が他の子供を巣から落とす様子を見て微笑ましさを感じて欲しいと求めるようなものである。

自分の欲求を他者に委託するのは気持ちが悪いことだと思う。腹が空いたからといって他人に食事を依頼するか? 眠い時、他人に共に眠って欲しいと思うか? もちろんNOだろう。人間のは、常に個体ごとに完結しているべきである。ヒトの群れに紛れ込んでいたとしても、ヒトに取り込まれてはいけない。インターネットで自分を希釈して、ベージュに染まるのは絶対に嫌だ。

ATフィールドを分厚く保って、ヒトの群れに何食わぬ顔で紛れて生きていくことを苦痛に感じないように。こうして文章を放出してガス抜きをしなければ、私が溢れてしまう。私が私として単独で完結できるように、他者を尊重しているふりをしながら、今日もまた人間の決めた境界を跨ごう。