チラシの裏 空白の必要性、空腹の恐怖

世の中情報に溢れている。飲み込みきれないほどの情報を取捨選択し、好き嫌いを区別し、酸っぱいものと甘いものを嗅ぎ分けて、ギリギリ溺れずに我々は生活している。

答えは握りしめたかまぼこ板状の端末をなぞれば、五秒とかからずに手に入り、研究者は日夜世界の空欄を埋めている。我々は今、余白を急速に失っている。

かまぼこ板端末に慣らされた若者は、感覚器官を情報で埋めないと損な気がするらしい。イヤホンで聴覚を、画面で視覚を、片手が空けばもう片方にも端末を。口寂しければストローも咥える。情報を目一杯取り込む。

この世で名前を持たない物体はほとんどない。重箱の隅をドリルで掘り起こして、ようやく出会えるような瑣末ごとにすら、名前がある。アマゾンの奥に行けば「ナンチャラの亜種」に出会うことはできるだろうが、発見した時点で名前が付く。残り少ない余白が埋まりきるのも、時間の問題だろう。

画面の大半を占めるのは、空白だ。余白を埋めきったとしても、空白を埋めきることはできない。空白がないなんてことはありえない。だからこそ、余白を埋めることでなく、空白を味わうことを目指すべきである。

未知が無ければ進展は無い。余白も空白も、埋め過ぎると窮屈だ。情報から一歩引いて、空白を作ることが、今の我々には必要なのでは無いか。

 

それはさておき、私は空腹が怖い。腹が減っている、という状態になると不安で仕方がなくなる。

少し前の話だ。朝食を抜いて電車に乗っていたら、急に強烈な目眩に襲われた。頭痛と目眩と吐き気を抑えて電車を降り、少し休むとマシになった。そのため安心して食事に行った。

しかし、出された食事はどれも味がしない。触感と匂いはするのだが、味だけがしない。塩味も甘味も感じない。テーブルにあった調味料を、オーバーにふりかけても味はしない。ジュースも臭いが薄くついただけの水と同じ。

まぁ、1時間くらいしたら再び味覚が戻ったのだが、あの味がしない体験をしてから、私は空腹が怖い。また強烈な目眩に襲われて、今度こそ永遠に味覚を失うのでは無いか。そんな思い込みが頭をよぎる。

あれ以来、空腹を感じるまえに、食べ物を口にするようになった。気持ち悪くなっても、胃に中身が残っていても、空腹を感じないように常に何かを口に運んでしまう。なまじ飽食の時代であるから、食べ物が簡単に手に入ってしまうのが憎い。贅沢な悩みである。

 

 

 

とまれ、空いたところに何かを詰め込み過ぎることは良くない。少し物足りないくらいがちょうどいいのだと思う。足りすぎてしまう不幸を自覚することは難しいが、一度自覚してしまうと、これほど辛いこともないのだ。